てんどうちひろの介護日記

父の介護を綴りました

在宅介護へ向けて

瑞穂の高沢病院でのリハビリと並行して芝中団地の部屋の片づけを行うことにする。もう何年も掃除した形跡がないためかほこり・カビ、それからたばこのヤニで変色がひどい。まずは古新聞・古雑誌と領収書等の各種書類を運び出し、次に衣類を運び出す。衣類についてはすべてコインランドリーで洗濯する。靴下やタオルが何十足、何十枚とでてくる。押し入れ、整理ダンスの中、整理ボックスの中などいろんな引き出しから出てくる。おそらく以前から買って、仕舞った場所がわからなくなったのかそれとも買ったこと自体を忘れたのか、はたまた洗濯が面倒だったのかいずれにしても同じものが多数あちこちから出てくるのには閉口した。そういえば同じサプリメントもあちこちから出てきた。一方、高沢病院へ毎週面会に行くたび「通帳はどこだ」「財布を持ってこい」というので中身は数千円だけ入れて渡す。病院からも現金を持たさないように言われていたこともある。しかし父は財布の中に数万円を持っていないと不安で仕方ないらしく会うたびに「郵便局へ連れていけ。生活費を下す。」という言ってくる。生活費を心配する時点で今の状況を理解していないもしくは受け入れられていないようである。気持ちはわからなくもないが自分の中には次、同じことが起きれば絶対孤立死に至るであろう確信というか不安な気持ちが全体を占めており父の言うことを素直に受け入れられなかった。心配だらけのまま2020年を迎えることに。

介護認定と退院

11月中旬。父の肺炎は快方へと向かうものの記憶の混乱?のような言動が続く。先生や相談員の助言もあってまずは、介護認定の申請書を市役所へ提出。続く問題は退院後の生活。今回の事態を再び招くことは避けたいから独り暮らしから同居へと考えるも準備が全くできていない。介護認定受けていないから介護保険も使えず。経済的余裕は全くない。病院からは肺炎が治癒したら速やかに退院するようにと促される。父は独り暮らしする気満々。あの騒動はなかったことになっている。まぁそれだけ気力があるならと、多少迷いながらも相談員の助言も参考に、リハビリを兼ねて転院することに。12月、瑞穂の高沢病院へと移る。

父の違和感

入院中の父の面会に休みのたび行って会話をするのですが、父は同じ話を繰り返す。「通帳と現金はお前が持っているのか」「大したことないのに周りが大袈裟にするから入院する羽目になった」と。その都度、同じ説明するものの次の面会時には同じ質問を繰り返す。この時、認知症を疑うこととなり、このまま独り暮らしに戻していいのか迷う。先生の助言もあって市役所へ介護認定の申請を出す。

 

面会後、父の団地へ行ってゴミの片づけを行う。まずは散乱した新聞と雑誌をまとめるところから。古新聞を入れる袋に入れても入れても部屋が片付かない。几帳面だった父の暮らしぶりの豹変にショックを受けつつ、あまり実家へ顔を出さなかったなぁ。悔やむ。並行して領収書やら貴重品類を集めて自宅で仕分けすることに。そこでこの10年間の暮らしぶりを知ることとなり正直驚きました。

11月4日

 翌日、入院手続きのためカミさんと二人で病院へ向かう。

病室で再び父と面会。今度はちゃんと認識してくれたようで一安心。

担当医より搬送までの経緯、警察署、救急隊の話を説明してもらう。

 

団地の4階に独り暮らしだった父。

新聞受けに3日分の新聞が溜まっていたのを見たご近所の方が119番をしてくださった。

救急隊がインターホンを鳴らすも応答がない、施錠されていることから警察へ通報となった。隣室のベランダから警官が部屋へ渡り、そこで座椅子に座った状態で発見される。警官の説明によればガラス戸は自分で開けたということだがほぼ身動きの取れない状態で救急隊に担がれながら搬送されたということである。

 

診察した先生の説明では、衰弱が激しく肺炎と脱水症状でしばらく入院を要するとのこと。速やかに入院手続きを済ますことになる。

 

その後、父の暮らす部屋へ向かい現場を確認する。

まさにゴミ屋敷だった。

5月に行った時も確かに新聞は散乱し、衣服もゴミ袋に詰められて放置されていたのを見て心配にはなっていたが、そのころと比べ明らかに散らかり方が尋常でないことを悟る。

そして休日のたび病院と部屋の片づけを行うこととなる。

 

後日、部屋を片付けるときに気付いたが放尿の跡が部屋、台所といくつかあり、几帳面だった父の変質にさらにショックを受けるのでした。

11月3日

2019年11月3日。

 夜21時ぐらいだったかな電話が鳴る。番号の下4桁が0110だったことから警察からの電話?と勘が働く。出ると、東大和警察署からだった。

内容は、父が救急車で病院に搬送されたということだった。それまで独り暮らしで悠々自適に暮らしていたと思っていただけに動揺が走る。

急いで搬送先である東大和病院へ向かう。

処置室で最初に父に会ったとき、父は「先生ですか?」と私を病院の医師と勘違いしたようだ。記憶の混乱はあるにせよ息子を認識できていない姿、痩せ細った姿にショックを受ける。

はじめに

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私と父が過ごした団地のベランダより

 これは自分にとって突然やってきた父の介護を忘れないように綴ったものです。備忘の意味合いがありますから楽しい内容ではありませんね。この先、何が起きるのか予断を許しませんが落ち着いて対応できるように、冷静でいられるように綴りたいと思います。