てんどうちひろの介護日記

父の介護を綴りました

感謝

父が特養に入所して1か月が経過。

振り返ってみれば様々な方々の助言や支援によって自分が救われてと感じる。

正直、役所の方々(公務員と呼ばれる方が)に対し決して良い印象とうか、どこか軽蔑の目で見ていたが(税金ドロボー的な)、福祉や年金に関わる職員の皆様の献身的な応対になんど感謝してもしきれないほどに助けられた。

 

経済的な話では、要介護認定のこと、介護保険負担限度額認定のこと、障がい者控除対象者認定のことなど、特に市役所の年金福祉課の助言にだいぶ助けられました。一方、生活支援センターの職員は父(介護保険認知症)、妻(若年性認知症)、娘(躁鬱)のことでお世話になってはいるが制度の内容が弱いのか、経験値が低いのか適切な助言をもらえたとは思えず残念である。子供たちの発達障害を幼少期に指摘してくれたのは横浜市の北部療育センターで当時、東京・埼玉は遅れていたものの10年後には療育センターが各所で設置され頼れる存在になったことを思えば徐々に良くなるんだろうと期待したいところである。

 

10月1日、緊急事態宣言が解除になったが面会は叶わない。治療薬、治療法の確立にめどが立たないと会えないのだろうと自らに理解を促す。久しぶりに会ったら息子だと認識してもらえるのだろうか。

入院手続き

病院での検査した結果、肺炎であったことから即入院となる。

医師からの説明では酸素濃度の低さや新型コロナ感染の疑い(結果、そうではなかったが)などから今日が峠と言われた時には心が縮む感覚を覚えた。ベッドの上で意識があるのかないのか寝ている父の姿。病室へ運ばれるまで横に付き添いながらこれが最後の姿なのかと思いながら見送った。

 

数日後、検査結果の連絡をもらう。細菌性の肺炎で新型コロナ感染ではないということで一安心。病状も回復に向かっているということで改めて父の生命力に感心する。

結局、2週間ほどで退院となったが、この件で特養入居は辞退となりふたたび施設へ戻ることになった。

ところがその一週間後、特養から順番が回ってきましたと連絡が入る。そこからは怒涛の如く引っ越し作戦の実行である。施設へは退所の説明と準備を依頼。当初、退院のタイミングで特養へ移れないかと打ち合わせをしていたことから一時的に施設へ戻ったにしても落ち着かぬうちの転居話だったことから何とか受け入れれてもらう。特養へは直近で入所する段取りで進めてもらい、レンタカー、介護タクシーを手配しその週末に引っ越し決行。

 

8月下旬、父は市内の特養へ無事入居となる。これで住民票移転の件も解決。独り暮らしの終焉。認知症の父は特養で余生を暮らすことなったのである。幸い、自分で立とうとしたりと半分見栄もあって頑張っているようである。施設には症状が悪くなる一方の父の面倒を見ていただき感謝するが、運営姿勢というか現場でなく組織・運営側の利益追求姿勢には仕方がないと同情しつつも不愉快な思いをさせられたことから退所できてほっとしているのが心情である。

ふたたび入院

緊急事態宣言の解除が期待されるなか、施設から連絡が入る。

父が自力で立てない状況にあるという。外出自粛やサロンの自粛によって部屋から出る機会を失った環境である。昨年6月に皮膚科へ行った時でさえ足元が弱っていて、いつ転ぶか心配であったが、ここにきていよいよである。施設からは歩行器を使って歩行訓練を施設内で行ってもらうこととなった。

 

4月、ついに歩行が困難になったと連絡が入る。歩行器でも自立できず尻もちを搗くことがあって事故防止の観点から車いすの使用を促される。寝たきり生活になるのではないかと不安が募る。後で聞いた話では、車いす生活になってからは自分の意思でトイレに行くことを諦めたそうである。尿意・便意を自覚できずおむつの使用は以前からあったものの今度は排泄自体を自覚できない。もしくは介護士のお世話に甘えているのかそのままでベッドに寝ていたそうで介護士の方々も車いす生活は介護度を加速させてしまったようだと話していた。

 

同じころ、特別養護老人ホームから申し込み順が上がってきたので入居準備の連絡をもらう。介護認定も3月に2から3へ変わったことも影響したのは間違いなと思う。

入居準備については手続き上、必要なのは理解できるが(自分はまだよいほうだと思うが)大変である。

 

5月外部の医療機関で健康診断を行う必要が発生する。訪問医では対応できないそうである。初めから予想はしていたので驚きはなかった。その後今度はPCR検査が必要とのこと。車いすの父をどうやって連れていくのか、施設側の協力をいただきつつ段取りを詰めていく。

 

健康診断も無事終わり、結果を特養へ提出、検討会で承認を得たことから具体的に入居日を決めようとしていたところへ施設から電話が、父の酸素濃度が90%を下回っていることから市内の病院を受診、そのまま入院になると告げられる。

2021年1月

年が明けて、今一度振り返る。

 

父が倒れて入院、在宅介護という形で引き取るも認知症が想像以上に進行していた。

対し、妻は若年性認知症を発症、長男はアスペルガー症候群、長女は躁鬱とADHDで自宅療養。で自分は8月の転職失敗を自覚しながら次を探す日々。

 

6月に介護付き住居へ入居するも皮膚疾患が悪化し施設からギブアップ宣言。デイサービスを受けてもらいたいからと住民票を移してほしいと要求され信頼関係喪失。そういえば提携しているケアマネージャーからはケアプランが送付されず、いったい誰の了解を得て介護保険使用しているのか、まるで父を人質に取られているようで不満が募る。

 

コロナの感染拡大が強まり、皮膚科の受診もできないことから過去に自分がとび火で似たような皮膚疾患をした時の治療内容を共有。ステロイド系の強めの皮膚薬の処方を依頼する。訪問医が匙投げてるのになんで息子が治療法を伝授するのだか。この診療医も形だけではないかと勘繰ってしまう。

 

2月、認知症の症状が進行し介護サービスの点数を超過する状態であると報告を受ける。介護保険の区分変更申請について同意する。この点は介護をしてくださる施設の方々に迷惑をかけるわけにはいかない。適正な報酬を得ていただくためにも要介護3に変更してもらうように依頼する。

 

3月付で父の要介護度が3に変更となったと報告を受ける。この機を見て申し込み済みでった特養へ区分変更の報告と検討会議での再検討をお願いする。

昨年11月に4か所へ申込し順番は39番とか59番とか当然と言えば当然の順位で順番を待っていたが区分変更により順位が上がった旨の連絡を受け取る。

 

2020年の年末

父が介護付き住居へ移って半年、コロナ禍のため面会はできず、飴と新聞の差入も次第に足が遠のいてしまう。施設に頼まれている皮膚科の受診も感染リスクを考え10月以降は連れていくことができない状態が続く。静かではあるが落ち着かない年末を迎えている。

 

ちょうど1年前に父が救急搬送され、在宅介護するもトラブルが絶えず結局は独り暮らしするための練習と称して施設入居させてしまったのである。本当に良かったのか自問自答を繰り返すことが多い。

 

カミさんの症状も緩やかではあるが確実に進行していることは実感できるほどでありながら認めたくない気持ちが強く、それでも障害年金の申請が頭をよぎる。

 

まだまだ出来事が多いのである。

 

コロナ禍の様子

新型コロナウィルスの影響で9月ごろから面会禁止となり2週間に一度のペースでお菓子屋ら飴を差し入れと面会で様子をうかがっていたが差入だけとなり次第に足が遠のく。聞くと、レクリエーション、散歩も自粛となり部屋とリビングの行き来だけで歩かなくなっているようで先が心配。日課だった自販機でコーラを買うことも止められ日々、テレビと昼寝の繰り返し。10月には皮膚科の受診のため連れ出していたがこれも自粛する判断を下し、訪問診療で薬をなんとか処方していただくようにお願いする。ドクターには申し訳ないが専門外であっても頼らざるを得ないのである。自分がとびひに係った時を参考にステロイド系の強い薬の処方を依頼してみる。10月から現在に至るまで面会はできないまま1日1日が過ぎ去っていく。

 

そんな中、施設から妙なことを言われる。11月からデイサービスを開始します。ぜひ利用していただきたいので住民票を狭山市へ移してください。えっ?デイサービスの利用については理解できるものの、利用条件が住民票を移してくださいとは。こちらとしてはデイサービス利用のためにわざわざ住民票を移せと強制されているようで一気に不信感がピークに達する。すぐさま市役所福祉課へ相談に行って見解を聞いてみるが不可解ということで至極まっとうであると妙に納得。

これをきっかけに市内の特養入所を本格的に検討、資料を取り寄せ、申し込みを行うに至るのである。

平穏

2020年6月。父は老人ホームで独り暮らし。当初、タバコが吸いたい。買い物に行きたいとわがままを言って介護士さんを困らせていたようだが2ヶ月を過ぎたころには落ち着いた様子で日常を過ごしているとのこと。毎日テレビを見て、本を読んで、昼寝しての生活を繰り返している。

このころから自分で何かをすることはなくなり、新聞を読み漁ることあるが、それ以外は主体的に何かをしようとしなくなる。「生きる」を諦めてしまったようにも見えてやや不安を感じる。そんなころ、新型コロナウィルスの猛威が世界を覆い始める。